昔かも知れない今かも知れない未来かも知れない・・そんな時代に僕らは産まれていて、大半の人は誰の記憶にも残らない生活を送っている。
何かに夢中になったり、何かを大事にしたり
誰かと話をしたり、誰かと愛し合ったり。
そんな事も死んでしまえば、誰も思い出せなくなるのに。
それは、何処の世界も変わらない。
誰だって訳が分からず、必死で生きているんだ。
「・・やっぱ此処も良いなぁ・・でもこっちの方が日当たりは良いし・・」
地球じゃない何処かの世界。
人間に良く似た種属やそれとは到底似ても似つかない種属も沢山居る。
魔法や奇術が、また実在している世界・・。
「・・よし、決めた!やっぱり此処!」
とある小さな物件屋で大声を出したのは、魔法使いの紡≪ツムギ≫だ。
紡は机の上に置いてある家の間取り図を指差し、お願いしますっ、と物件屋の主人にそう言った。
家を買った。溜めてきた給料ほぼ使い果たしちゃったけど。
此処は何処か知らない町だ。名前はさっき・・教えて貰ったけど忘れちゃった。
結構大きな町だから、色々不便はしなさそうだ。
1からやり直さなくちゃ行けない。折角全部、消したんだから。
「・・さ、て!色々買ってこようかなっ」
買った家の部屋でぼーっとしていた紡はそう言って立ち上がった。
「・・・っ・・っ」
痛い 痛いって何
冷たい 冷たいって何
死にそうだ 死ぬって何
誰か 誰かって何
俺を助けて
俺って、 何?
知らない所を滅茶苦茶に走っている。
此処が何処かとかそんなの分からない。
誰か、 助けて・・・?
「・・・ん?」
買い物袋を抱えた紡は、何かに呼ばれたような気がして立ち止まる。
暫く辺りを見回した後、小首を傾げる。
「・・気の所為?かな?」
そう呟いて、紡は後ろを振り返る。
後ろには今歩いてきた道が続いていて、段々細くなっていく。
そこからは別れ道になっていて、さっき買い物をした店に出る道と森に繋がっている道になっている。
紡はそこをジッと見詰めた後、ふ、と微笑みを零す。
「・・・まさかね」
そう呟き、紡は元来た道を戻っていった。
もちろん別れ道は、森の方を選んだ。
華やかな町とは到底似ても似つかない薄暗い森だ。
今にも獣が何処からか出て来そうだ。
こんな森があの町の隣にあったとはな、と思いながら紡は歩いていた。
不思議と足が向かう。何処に行くのか、自分でも分からないのだけど。
「・・荷物・・置いてくれば良かったかな」
買い物袋を持ち直しながらも紡はそう呟いた。
その次の瞬間、ぴたりと歩みを止める。何かの気配を感じたからだ。
紡はジッと声を殺し、目だけ動かして気配の正体を探す。
「・・・っ」
微かに誰かの息使いが聞こえた気がして、紡はそちらの方に歩いていく。
逃げないようにそっと。
道のように草が駆ってあったのだが、途中からは背の高い草が生え、挙げ句には木よりも低いが草よりも紡よりも高い茂みが目の前に現れた。
「・・やっぱ、荷物置いてくれば良かった」
諦めたように笑うと、紡は片手で草を掻き分けながら茂みの中に入っていった。
何処まで続くんだろう、と気を失いそうになってくるとようやく先程まで居た普通の道のように草が駆ってある所に出た。
そしてそこには、1人の少年が倒れていた──────
紡はゆっくりとそちらに近付くと、少年の頭の横あたりにしゃがみ込み
買い物袋を投げ出し俯せで倒れている少年を起こした。
「ちょっと、大丈夫?」
ゆっくりと落ち着いた口調で耳元で囁き、肩揺らす。
少年の服には血が付いていた。まだ新しいものだ・・だが少年は怪我はしていないようだ。
ほっとしつつも紡は起きそうもない少年を背中に回し、背負い、近くに落ちていた買い物袋を拾い上げて立ち上がった。
「・・・・もうなにやってんだか」
ふ、と苦笑気味に笑ってから紡は歩き出した。
町に戻ると、町はすっかりオレンジ色に染まっていた。
人が少なくて良かった、と紡は家へと歩いて行った。
さてこの後この子はどうしようか、と考えながら。
考えなしに何でも突っ走ってしまうから後から大変な事になる。
昔も良く言われた。
昔、
昔なんて、 何時だったっけね
「よ・・いしょ」
何とか鍵を開けて家に入り、シーツがひいてあるだけでまだ布団も置かれていないベッドの上に少年を寝かせた。
掃除をしてて良かった、と呟き先程町で買った買い物袋をテーブルの上に置き、その中からタオルを取り出して炊事場に向かう。
蛇口を捻って水を出し、タオルを濡らして絞る。
少年の所に戻ると、濡らしたタオルで少年の顔に付いた血や泥を拭う。
綺麗な顔の少年は、まだ当分起きそうに無かった。
本当はこんな事、望んで何か居なかった。
棄てたかったものを棄てられずにいて
棄てたくないものを棄てちゃったりして
天の邪鬼とかそういうのじゃない
そう、ただ、
運が無かっただけかも─────
鳥、鳥が鳴いてるよ──────
鳴いてるのに楽しいの?
鳴いてるの?泣いてるの・・?
ねえ 分からない事だらけなんだ
知らない事がいっぱいある
知らない事を知らないままで消してしまう何て
勿体ないと思うんだ・・なのに・・
『さよなら』
「・・・っ」
痛みが走って、顔を顰める。
そして、意識を取り戻す。
此処・・何処だっけ。
何をしてたんだっけ?
当たりを見回すが、灯りなどは一つもなく真っ暗な空間。
目が段々慣れてくると、そこが部屋だという事が分かる。
茶色くて丸いテーブル。椅子が二つ・・何も入ってない本棚。食器棚。
白いカーテンと窓・・。
知らない場所。
逃げなくちゃ、と思うのに酷く身体が重くて動けない。
良いかな、と思う。さっきは絶対に嫌だって思ってたのに。
絶対に捕まりたくない、って。
でももう良いかな、と思う。
今は、この身体をどうにかしなくちゃ。
また眼を閉じる。
明るい朝を迎えた事は、初めてだったんじゃないかと思う。
太陽があんなに明るくて、綺麗で大きくて暖かいいんだっていう事も
パンが柔らかい事も美味しい事も
きっと、初めてだったんだ。
目が覚めて、飛び込んでくる眩しさに眼を細めた。
「あれ、もう起きてて大丈夫?」
次に聞こえた知らない人の声。
そこに居たのは、蒼い瞳だった。
「おはよ」
瞳を細めて笑ったその人は、
この世のものでは無いんじゃないかというくらい 綺麗に、映った。
紡という名のその人は、二階建ての小さな一軒家に住んでいる・・と言っても昨日買ったばかりらしい。
魔法使いで、仕事はこれから見つけると言っていた。
「君は?名前」
名前くらいなら、何とか答えられる。
「・・信」
後は?
何処から来たの?何しに来たの?どうして倒れていたの?
答えられない。
そう。あれは自分の記憶からも消さなければいけない。
立派に、覚えていません、と言えるように。
「好きなだけ、ここに居ていいからね」
紡は笑った。名前だけを聞いて、後は何も聞かずに。
その優しさに救われたのか、どうなのか・・まだ良く分からない。
本当は罵られた方が良いのかも知れない。
それだけの事をしてきたのだから。
目覚めた黒髪の綺麗な顔の少年は、名前を信と言った。
名前だけを何とか名乗って、後は何も喋らなかった。
・・だから聞かなかった。 他人がとやかくいう問題でも無いだろうから。
「・・もうほんとに何やってんだか」
はあ、と小さく溜息をついて。 そして、また小さく笑った。
「ま、いっか」
マイナスな事ばかり考えてられない。棄てたものはもう拾わない。
そう、決めたから。
ばち、雷が走ったような音がして指先に痛みが走る。
「・・・っいった・・」
紡は小さく声を上げて、持っていたコップを床に落とした。
それを見ていた信は、落ちているコップを拾って紡を見上げた。
「・・大丈・・夫?」
恐る恐る声を掛ける。紡は手首を押さえながらも小さく笑った。
「うん。平気」
たまに、静電気よりも少しばかり強い電気のようなものが指先に走る。
これは魔力だ。
自分の中の魔力がたまに俺を前に出せと言ったように身体を傷付ける。
魔法使い誰でもではない、これは自分を含めたある一部の魔法使いだけだ。
「これでよし・・と」
右手の人差し指と中指に包帯を巻き付け、縛ってそう呟く。
火傷のようなものが後に残って、触れると痛いのでこうしておくのだ。
信はそれをジッと見ている。
「・・何?包帯が珍しい?」
冗談混じりで言ったつもりだが、信は小さく頷いた。
「・・・・・・そう」
微笑んだ。
信は当たり前にあるものが珍しいらしく、事ある事に、これは何だ、と聞いてくる。
その度に誰もが当たり前に知っている事を説明した。
信が家に居候するようになって何日か経った。
仕事も決まり、ようやく落ち着いた生活を送れるようになっていた。
「ねえ、紡ちゃん」
仕事先の本屋の店長がそう声を掛けてきた。
本屋の給料だけじゃ二人分はまかないきれないので、本屋だけでなくいろんな所で働いているのだが。
「何ですか?」
本の整理をしながら紡は顔を上げた。
店長は持っていた新聞を広げて紡に見せた。
「みてみてこれ!政府の秘密兵器が逃げたんだってさ」
写真は載っていない文字だけの記事。
だがでかでかと大きく見出しが出ている。
「冷徹な人殺し兵器 監視員を殺して逃亡」
「へぇー」
あんまり興味は無いのだが、興味があるようにそう返した。
店長は弾んだ声を上げる。
「姿は美少年の形をしていて、黒髪で紅い眼なんだって!
政府はこれを内密にしていたけど、どっかから情報がもれたのね」
黒髪で紅い眼。信と同じだな、と思った。
「こんなのを隠しもってたなんて、恐ろしいわね」
「そうですね」
その時は適当に流していた。
同じ国の中でも、何だか世界が違うような話だ。
どうせ自分の世界はそんなに変わりはしないのだ、と。
「ただいまー」
しん・・と静まりかえる部屋に、紡の声がこだました。
返事は、無い。
「・・・信?」
何時もは無愛想でも、おかえり、と言ってくれる信の声がない。
それどころか姿もないのだ。
部屋は薄暗くて、灯りも灯っていない。
「しーんっ!」
どこそこ部屋を探ってみるが、やはり居ない。
・・嫌な予感がした。
魔法使いの予感は、対外は当たるものだった。
「・・箒!クロエ!」
紡は部屋の奥に向かってそう叫んだ。
部屋の奥、それは倉庫だ。
ガッチャンガッチャンと何かが落ちたり開いたりする音がして、部屋の奥から古ぼけた箒と埃まみれのコウモリがふらふらと飛んできた。
「御主人・・お呼びですかぁ?」
はあぁ、と怠そうに溜息を付きながらコウモリが紡の肩に止まる。
成人した魔法使いには『使い魔』と呼ばれる動物が一匹付いているのだ。
「酷いッスよ・・あんな埃まみれのかび臭い所に閉じ込めて置くなんて・・」
箒が涙声でそう呟く。
紡は、ごめんごめん、と適当に謝りながら箒を手に取り付いていた埃を払ってあげた。
「・・もうボクらは封印するんじゃ無かったんですかぁ」
コウモリが自分の毛についた埃を払いながらも怠そうにそう言った。
紡は箒を見つめながらも、小さく笑った。
「・・・・そのつもりだったんだけどね」
小さな声で呟くと、紡はテーブルの上に置いてあったランタンを手に取り、箒に跨った。
そしてランタンを箒の先端にぶら下げる。
「クロエ、信という子を探して欲しいんだ。黒髪に紅い眼。綺麗な顔の男の子だよ」
クロエと呼ばれたコウモリは面倒臭そうにまた溜息を付くとランタンの上に止まった。
「はいはい・・っとぉ」
クロエは眼を閉じて動かなくなった。
「箒、行って」
紡がそう呟くと、了解、と箒は呟きふわりと地面から浮かび上がった。
静かに窓がひらき、箒に乗った紡とクロエは窓から飛び立った。
「・・あの子かなぁ・・12時の方向に居るけどぉ」
暫く飛んでいると暗闇の中でひときわ目立つ金色の瞳を紡に向けてクロエがそう呟いた。
「解った・・箒、そっちに向かって飛んでくれないかな?」
紡が冷静にそう言った。
普段のドジな紡とは似ても似つかない態度だった。
「了解」
箒がそう言って、クロエの示す方向へ向かった。
冷たい。冷たくて、痛い。
紡の居た場所は、暖かかった。
この場所は、 冷たい。
「・・は・・っ・・」
浅い息を繰り返しながら、信は歩みを止めその場に崩れ落ちた。
ずいぶんと走ってきた。無我夢中で走ってきたから、此処がどこだか解らない。
昼間見た新聞には、自分のコトが書いてあった。
すぐに「政府」は探しに来るだろう。
・・そう、あの殺戮兵器、とは・・信の事だった。
信は眼を閉じて、大きく息を吐いた。
知らない事、見た事もないモノ、たくさん教えて貰った。
感情も言葉も物も、大分物知りになった。
そんな時間は、幸せだ。幸せな時間・・幸せな場所。
幸せな場所は崩してはいけない。それだけは、教えて貰わなくても解った。
自分が居ると迷惑が掛かる。
だから逃げた。
紡は「大事」だから、巻き込んじゃいけない。
「・・逃げなきゃ・・」
ぽつりと呟いて、信はふらふらと立ち上がった。
逃げるって・・何処にだろう。解らないのに、また歩き出すんだ。
「・・・・・何」
暫く歩いて、信は立ち止まった。
何かの気配がする。 とても、とても嫌なもの。
何かは大体解っていた。・・・逃げなきゃ、そう思うのに足が動かない。
「捕まえろ!」
男の声がした。知らない声。
だけどそれは自分を捕まえようとしている。
信はふらつく足で走った。何処へ行くのかも解らないのにただ走った。
逃げなくちゃ、逃げなくちゃ・・。
だがどんなに逃げても声と足音は段々と近くなるばかりで
それに何だか、増えているような気がする。
「・・っ・・は・・っ」
段々息が上がってくる。
助けて、助けて、助けて・・
誰が?誰の為に?助けに来るっていうんだ。
結果はもう、見えてるのに。
「あっ・・・!」
何かに躓いて、信は倒れ込む。
地面に這い蹲った状態でいると、明るすぎる光を向けられる。
信は思わず目を伏せてしまった。
「・・はあやっとか。手こずらせやがって」
男達の声がすぐ傍で聞こえる。
捕まる。またあの場所に戻されるんだ。
解っていたことなのに、信は恐る恐る目を開けながらも男達を見上げた。
逆光で顔は良く見えなかった。
「さあ・・観念するんだな」
これが、 宿命。
冷たい冷たい鉄の部屋
そこは酷く冷え切っていて
暖かいはずの吐息も冷たく凍っているかのようだった
誰かが笑った
『おはよう お前はこの世界の希望だ』
おはようの意味
お前の意味
この世界の意味
希望の意味
全てが分からなかった
どういう意味?
知っていたのに
忘れさせられたの?
終わりだ、死ぬ訳でも無いのにそう思った。
いや、もしかしたら死ぬのかも知れない。
「今の自分」は居なくなるのかもしれない。
ぎゅっと目を瞑った。
明るいところは、自分にはきっと眩しすぎたんだ。
「・・すみませんその子、かえしてもらえます?」
声が聞こえた。知ってる声。
唯一、 知ってる声だった。
「何者だ貴様・・魔法使いか?」
眩しい灯りが違う方向へ行った。
目を開けると、そこにはあの紡が立っていた。
どうして?、と思う前にとても懐かしいような気がした。
ついさっきまではそこに、隣に居たハズなのに。
「紡・・」
信は小さな声で呟いて、はっとなった。
紡はどうなってしまうのだろう?
この人達に散々な目にあわされるに違いない。
紡は此方に向かって無言で歩いてくる。
信を取り囲んでいた男達は、紡の方へ行く。
「貴様!止まれ!」
一人の男が叫んだ。
だが紡は無視をして信の方へ歩いてくる。
「紡・・逃げろ」
掠れた声で信が呟いた。
信の前まで来ると、紡は信に手を差し伸ばした。
「帰ろう。信」
途端に、涙が出そうになった。
涙なんて、その存在さえ忘れてたのに。
「帰ろう」という一言がどうしてこんなに嬉しいのだろうか。
紡だから?
紡だから・・・
「貴様っ・・!」
男が叫んで、持っていた銃を紡に向けた。
紡はその男に背を向けている。信は紡を見た。
「紡・・ッ!」
叫んだが、紡は小さく笑うだけで逃げようともしない。
信は身体中から血の気が引くのを感じた。
今まで、人が死ぬのなんてどうでも良い、と思っていたのに。
どうしてこんなに怖いんだろう。
目の前のこの人が居なくなるのが、物凄く怖かった。
「大丈夫、これくらいじゃ死なないから」
紡は呟き、男の方を振り返った。
男は銃を両手に構え、焦ったような表情をしている。
「この子はかえしてもらいます、良いですね?」
柔らかい口調で紡が聞いた。
でも何時ものような紡では無かった。
「何を言ってるんだ!そんな事出来るわけ無いだろう」
苦笑混じりに笑いながら、男達がそう言った。
紡も微笑みを浮かべる。
「さて、どうでしょうね?」
掛け合いが続き、終わった頃には男達は全員銃を両手に構えていた。
信は言葉も出て来なくなり、その場にただ蹲って涙を溜めた目を紡に向けていた。
「撃つぞ・・っ!」
「どうぞ?」
こんな遣り取りの繰り返し。
紡はほとほと飽きたというような表情をつくった。
「・・こうしてても時間の無駄なので、帰りますね」
溜息を一つついて、紡はそう言った。
男達は、不思議そうな顔をしつつも銃を放さなかった。
「クロエ、箒、・・信、帰るよ」
紡は信に手を差しのばす、信は反射的に紡の手を取って立ち上がった。
その瞬間、男の一人が銃を発砲した。
バァン、 大きな音が森の中に響きわたった。
声も出なかった。
ただ、銃声が聞こえた瞬間立ってられないほどの恐怖が襲ってきて座り込んでしまった。
「無礼者・・」
紡の後ろでそんな声が聞こえた。
撃たれたハズの紡は、平然としていて立てずにいる信をお姫様抱っこのようにして抱え上げた。
くるりと紡は信ごと振り返る、するとそこには長い、真っ黒な髪の女の子が立っていた。
「なっ・・!?」
何が起こったのか、信と男達には分からず全員言葉を失っていた。
女の子の手から何かが地面に落ちた、それは弾丸だった。
「紡様には私が、指一本触れさせません」
女の子の強い声が聞こえた。
男達は恐怖のあまりか、一歩後ろに引き下がった。
「・・それから」
女の子はそう呟くと、両手を男達の方に突き出した。
「あなた達には今夜の事は忘れて貰います」
そういう声が聞こえると、信は紡に目を塞がれてしまった。
何が起こったが分からないが、紫色の、光を見た気がした。
「さ、帰りましょうか」
振り返った女の子の瞳は、綺麗な綺麗な金色の瞳だった。
気がつくと、朝になっていた。
暫くベッドの上でぼーっとした後、信はむくりと起き上がった。
「あ、えぇっとぉーおはようございますぅ」
怠そうな声が聞こえて、そちらを見るが人影はない。
空耳かと思うとぱたぱたと一羽のコウモリが飛んできてベッドの布団の上に止まった。
「どぉでもいいけどぉ・・よく寝れましたぁ?」
コウモリがそう聞いてくる。コウモリが、そう聞いてくるのだ。
信は少々驚きながらも小さく頷いた。
「あっそぉ」
本当にどうでも良さそうにそういうと、コウモリは横を見てぱたぱたとまた飛んでいった。
その先を目で追うと、鍋を抱えた紡が立っていた。
「おはよー」
紡が笑顔でそう言ってくる。
まるで昨日の事が無かったかのように。信もつられて笑顔になる。
「・・おはよ・・」
言葉を交わしてようやく、あぁ帰って来たんだな、と思った。
帰って、という言葉が使えるようになったんだな、とも思った。
「お互い話さなきゃいけないこといっぱいあると思うけど
まずは、食べよっか」
柔らかく微笑んだ紡の笑顔に、何だか涙が出そうになった。
「あーいいなーみんなだけ食べれてー」
羨ましそうに、壁に立てかけてある箒が呟いた。
箒も喋っている・・、最初は驚いたが数秒経てばもう慣れてしまった。
「いいでしょぉ、あげないけどぉ」
クロエ、という名前のコウモリがパンをかじりながらそう言った。
コウモリの表情は分からないが、心なしか笑っているようにも見える。
「この子達は俺の使い魔で・・、倉庫にとじこめ・・閉まっておいたんだけどそれじゃ可哀想だから一緒に居させてもいいかな?」
紡が信にそう聞いてくる。
箒が遠くの方で、騒いでも開けてくれなかったクセに・・、と呟いた・・が、紡は聞いてないふりをした。
「うん・・てか・・俺が居候してるんだし・・」
俯きがちにそう呟いた。
何度も、迷惑ではないだろうか、という事は考えていたのだ。
いつ出ていけと言われても仕方ない、状態。
「・・そうだけど、でもまあ、信もこの家の住人じゃない?」
ていうか喋る箒とか気持ち悪いかなって、と紡が笑った。
住人じゃない?、と言われた時凄く嬉しかったのは、何でだろう。
「ちょ、気持ち悪いって酷いッスよ・・」
きっと、帰る場所を見つけられたから。
「俺が魔法使いなのは、知ってるよね?」
朝食の後、ぽつぽつと紡が語り出した。
「・・・うん」
頷きながら思った。
自分も話さなければならない。・・といっても、もうばれてるのかも知れないけど。
「俺はその魔法使いの中でも・・まあ結構偉くて強い方だったんだけど
色々あって、今は魔界を出て普通に人間として暮らしてるわけ」
魔法は使えるけどなるべくは使わないつもり、と紡は微笑んだ。
「色々・・って?」
信が聞いてくる。
んー、と暫く紡は唸った。
「まあ簡単に言えば・・嫌になっちゃったのかな・・?それで逃げて来ちゃったとか」
他人事のようにそう言った。
粗方嘘ではない。
本来魔法使いは、髪と目が黒色のハズだが紡は違った。
赤い髪に蒼い瞳。異端者だと言われ続けていた。
だが、紡の魔力はかなり強力で、いつしか魔界に必要不可欠になってしまった。
罵りを取り返すように媚び始めた人々に嫌気が差し始めた紡は、魔界を出た。
魔法使い達の記憶から自分の事を消して。
「・・まあ、そんな感じかな」
紡は本当に簡単に自分の事を説明した。
何人か殺ってしまった何て言えるわけがない、と心の奥で苦笑する。
だが目の前のこの子は、もっと大量に人を手に掛けているだろう。
信は俯く。
「・・・俺、は・・」
そして弱々しい声を零した。
「・・もう・・分かってると思うけど・・政府から逃げ出した殺戮兵器・・なんだ・・」
普通の人が想像もつかないくらい人やそれ以外を手に掛けた、冷徹な殺戮兵器。
信はそんな素振りが微塵もないくらい、弱々しい声で語り出した。
「俺を作った人達に命令されると抵抗できなくて・・本当はやりたくないのに・・勝手に身体が・・動くんだ」
悲しいとも苦しいとも感じない、誰かはそう言うけどそれは違う。
信は元々人間だったものを改造して作られた兵器。感情くらいは人並みにある。
「・・辞めたいのに出来なくて・・・・・だから、逃げたんだ・・」
逃げてしまった。
監視の人、通りすがった研究員、追いかけてくる人。
殺してまで、逃げてしまった。
怖くて、ただ
悲しくて、
ただ。 いろんな事を知りたくて
望む事さえ出来ないのか、訴えだって掻き消される。
信は俯いたまま、何も言わなくなってしまった。
そんな信の頭に紡は片手を置いた。
「話してくれてありがと」
紡の言葉に信は顔を上げて小さく頷いた。
そんな信を見て紡は小さく溜息を零す。
「・・あーあ。面倒な事嫌だったのに」
呟いた紡の言葉に信は罪悪感を感じる。
自分の所為で、迷惑をかけてしまった、と。
「・・・何か・・ずっと一緒に居たくなっちゃったなぁ」
え、と声を零す。
其方を見ると紡は蒼くて綺麗な瞳を細めて笑んでいた。
「片付けよっか」
狡い人だと思った。
同時に 暖かい人だと思った。
犯した罪が減る訳でも無いのに
救われた気がした。
それは勝手な思い込みかも知れないけれど
向けられた眼は必死で、離せなくて
何かの暗示に掛かったように、助けてあげたいと思った。
それを意志だと、思い込む。
それは意志かもしれないから
仕事をさぼって花でも見に行こう。
笑顔に変わる言葉を探そう。
相手もきっとそうするだろう。
言われた分だけ返事を返そう。
それが何より大切な事か
普通の人には分からないだろうけど
「はぁ・・だるいぃ・・あいすたべたぁいぃ・・」
天井付近をぱたぱたと何だか怠そうに飛びながらもクロエは呟いた。
信は椅子に座ってその様子をジッと眺めていた。
「あいすぅ〜あーいすぅー♪」
ついには歌い出してしまった。
喋るコウモリ、不思議生物クロエは歌っている途中で信の視線にようやく気付いて、信の前のテーブルに降りてくる。
「なんですかぁ・・?苦情はうけいれませんからねぇ」
金色の、小さな瞳でクロエが見上げてくる。
信はその瞳を見つめた。
「別に・・苦情とかじゃないんだけど」
信の言葉に、あっそぉ、とどうでも良さそうに呟きクロエはまた飛び上がった。
信の目の高さ当たりまでくると今度はクロエが信の紅い瞳を見つめてくる。
「・・・あなたなにかしたんですかぁ?・・まあ別にどうでもいいですけどぉ」
クロエの質問に信は不思議そうな顔をする。
「なにか・・、って?」
信の返事にクロエは溜息をついて、テーブルの上に置いてあったランプの上に止まった。
「御主人に、ですよぉ」
御主人、とは紡の事だ。
信はきょとんとした顔になる。
「・・なんかへんなんですよぉ・・・優しくなったっていうかぁ
いーかげんになったっていうかぁ」
まあ別にどうでもいいですけどねぇ、とクロエは眼を細めていった。
信はクロエに顔を近付ける。
「どういう意味?」
またもや質問返しをされて、クロエは信を見た。
「だからぁー変わったんですよぉ御主人の性格みたいなのー?まあそんな感じのがぁ。
こっちに来てからだからぁ・・あなたが何かしたのかなぁって気になっただけですよぉ」
解りましたぁ?、と疲れたようにクロエが言った。
信はクロエの言った事の意味を理解するために2.3度小さく頷き、椅子に座り直した。
「・・・俺・・何もしてないよ」
迷惑はかけたけど、と少ししゅんとなって信は呟いた。
クロエはランプの上から信を見上げる。
「・・まあよかったんじゃないでしょうかねぇ・・どうでもいいですけどぉ」
クロエは怠そうに言いながら羽を広げてよろよろと飛び始めた。
「・・・え?」
クロエが飛び始めたとほぼ同時くらいに信は顔を上げた。
「ボクもあなたのことそんなに嫌いじゃないですしぃ」
コウモリの表情は、やっぱり良く分からないが
心なしか微笑んでくれた・・気がした。
「はあぁそれにしても暑いですねぇ。あいすぅたべたぁいぃ」
またクロエが怠そうな口調で叫び始めた。
信はその様子を見上げて、ふっと微笑んだ。
何だか、凄く幸せなような気がする。
「箒にでも買いにいかせようかなぁ・・・って、あれぇ?」
叫んでいたクロエが当たりをきょろきょろと見回し始める。
信は不思議に思って緩く首を傾ける。
「・・・どうしたの?」
そう聞くとクロエが、あれれぇ?あれれれれぇ?、と言いながら
ぱたぱたと部屋中を飛び回っている。
「箒がいないんですよぅ・・いつもここにいるはずなのにぃ」
クロエが、おかしいなぁ、と付け足してそう言った。
いつもは箒は扉の横に立てかけてあるのだが、今日は居ない。
「自分から外に出るわけでもないですしぃ・・」
クロエが思考を巡らせながらそう言った。
信は少し心配になってきた。誘拐、なんて事は無いだろうけど。
「・・もしかしてぇ・・・・・いやぁ、そんな事あるわけないですよねぇ・・まぁどこかうろついてるんでしょぉどうせぇ」
クロエが一人で自己解決してしまった。
信は椅子から立ち上がった。
「俺・・探してこようかな」
信の言葉にクロエが驚いたような顔をした・・気がした。
ぱたぱたと信の周りを飛び始める。
「そんなぁ、・・・でも、そうですねぇ・・じゃあボクもいきますぅ」
また一人で自己解決すると、クロエはテーブルの上に降りたって
金色の瞳を閉じた。
「えーっとぉ・・」
呟くと、ばさばさと羽を2.3度羽ばたかせた。
すると、ぽんっという何かが弾けたような音がいきなりして、信は驚いて思わず眼を閉じてしまった。
「ふぅ・・とりあえずこれで一安心ですねぇ」
そんな声が聞こえて、信が目を開けるとそこには
金色の瞳の少女がテーブルの上に座っていた。
このあいだ見た少女より、そして信よりも小さかった。
「・・・どうかしましたぁ?」
ぽかん、としている信に少女が首を傾げて尋ねてくる。
この間、信達を助けてくれた少女とはやはり別人だが、顔が似てるから同一人物なのだろう。
「・・い、いや・・別に」
信はそう呟いて、くるりと振り返り扉に向かった。
少女は、暫く不思議そうな顔で信を見た後、ぴょんっ、とテーブルを飛び降りて信の後を追った。
行きがけ、信は自分の黒い髪と赤い眼を隠さなきゃ、と思い
帽子を探した。
だが後ろからクロエが、そんな事しなくてもいいですよぅ、と呟いた。
自分は政府の殺戮兵器で、その証が黒髪と赤眼だ。
こんな姿で家を出たら、記事が出回った今、すぐに捕まってしまうだろう。
しかしクロエは、大丈夫ですよぅ、と信を引っ張って家を出て堂々と道の真ん中を歩き出した。
信は人の前に出て、思わず息を飲んだが誰も自分の事に必死で信のコトなど気にしていないようだった。
もしかして、もう逃げ出した殺戮兵器のコトなんか、みんな忘れてるんじゃないだろうか、信はうっすらとそう思った。
そうだったら、良いのに。そうだったら・・良かったのに。
「あ、紡さん」
クロエが声を上げた。
御主人、ではなく、紡さん、だった。
紡は本屋のガラスの向こう側で本を並べていた。
此方に気付くと、驚いたような顔をして外に出て来た。
「クロエ・・・と、信?」
何故か信だけ疑問系だった。
何しにきたの・・、と紡が言いかけた途中で奥からひょこっと黒縁眼鏡をかけたポニーテールの本屋の店長が顔を出した。
「お客さん・・・にしては小さすぎるわね・・紡ちゃんの知り合い?」
店長が表に出て来て、二人の顔を交互に見た。
「こんにちは」
クロエが先程の怠そうな態度とは打って変わって、礼儀正しくそうお辞儀をした。
信もそれを見て慌ててお辞儀をした。
「こんにちはー」
店長が微笑む。
「知り合いの子なんです・・今、色々あって俺が預かってて」
紡がそう言った。
即興の嘘だろうか、それとも前から打ち合わせていたのだろうか。
「そうなんだー・・大変ねぇ、私、ミシェル。よろしくね」
ミシェル、という店長が二人と眼を合わせるようにかがみ込んでそう笑った。
「私はクロエです・・こっちはお兄ちゃん・・えと」
クロエが信を見て眼で、名乗って下さいぃ、と言った。
信は慌ててミシェルを見た。
「信です・・」
そう呟いて、ミシェルの紫色っぽい色の瞳を直視して、思わず目を逸らしてしまった。
最初に、紡の眼を見た時に似てる。
この世のものではないんじゃないかってくらい、綺麗な、綺麗な瞳。
「クロエちゃんに、信君かー・・二人は、兄妹?」
ミシェルが聞いてくる。
信は答えられずに小さく俯いてしまった。
「はい!・・あともう一人、私と信お兄ちゃんのお兄ちゃんがいて・・
彗っていうんですけど・・あ、今はどっか行っちゃってて」
クロエが代わりに答えた。
彗とは箒のコトだろうか・・、と信は思った。
「そうなんだ?3人も大変だねぇ・・紡ちゃん」
ミシェルが紡を見る。紡は微笑んでみせた。
「えぇ・・でも、可愛い子達ですよ」
家事とか上手だし特にこの子、と紡は信の頭を撫でた。
信は小さく俯いたまま大人しく撫でられていた。
それが本心で言っているのか、その場限りの嘘で言っているのか、信には分からなかった。
本心だと良い、そうどんなに願ったか知れないけど。
「二人とも、何か困ったコトがあったら何でも言ってね!
お姉さん力になってあげるから!」
ミシェルが二人に向き直ってそう笑った。
クロエは大きく頷いて、はい!、と大きく明るく返事を返した。
信も小さく頭を下げて、ありがとうございます・・、と細い声でようやくお礼を言った。
顔を上げた時、信は店のガラスに映った自分を見て、思わずぎょっとした。
一瞬、知らない人かと思った。
だって自分の目の色が、赤ではなくクロエと同じの金色の瞳になっていたのだ。
信は、クロエと紡を交互に見た。二人とも信には気付いていないようだ。・・もちろんミシェルもだ。
さっき紡が、驚いたような顔をした訳がようやく分かった。
「あの、じゃあ私達もう行きます・・お兄ちゃん探さないと」
クロエが丁寧にそう言った。
あらそう?、と少し残念そうにミシェルが呟く。
心なしか紡が、早く行ってくれ、という顔をしているように信には見えた。
「お兄ちゃん、いなくなっちゃったの?」
ミシェルが心配そうに呟く。
クロエは顔に笑みを浮かべる。
「あ、大丈夫です。お兄ちゃん、すぐどっかに行っちゃうんです」
そうなの・・、とクロエの答えに不思議そうにミシェルは頷いた。
「何かあったらすぐ呼んでね?」
紡が少し心配そうに信に呟いた。
信は、慌ててこくりと頷いた。
「じゃあ失礼します!」
クロエが頭を下げて歩き出した。
信も続いて頭を下げて、クロエの後に付く。
ミシェルが手を振って、まったねー、と明るい声を上げた。
「はああぁ・・疲れますねぇー人付き合いって面倒臭いぃ」
二人が見えなくなると、クロエは急にまたいつもと同じような怠そうな喋り方になった。
肩が凝るんですよねぇー、と年寄りみたいな事を呟くクロエと信は並んで歩いていた。
「・・あの、さ・・・・俺の目・・」
俯いた状態から、ちらりと目だけでクロエを見つめてそう呟いた。
何で金色なの?、とまでは言えなかった。言葉が喉に引っ掛かって出て来なかったのだ。
「ああー、ちょっと変えさせて貰いましたぁ。
これで兄妹に見えたんじゃないでしょうかねぇ、心配しなくても帰ったら戻りますよぅ」
クロエの、魔法だったのか。
信は安心すると同時に少しがっかりした。
変われば良かったのに。
本当に、クロエと同じの、金色の、綺麗な目になれば良かったのに。
クロエと兄妹だったら良かったのに。
「はあぁ・・・」
森に向かって歩いていると、急にクロエがやれやれと溜息を付いた。
信は不思議に思ってそちらを見る。
「どうかした?」
そう聞くと、心なしかいつもより凛々しい顔付きになってクロエは森の方を見つめていた。
「嫌な予感が当たっちゃいましたねぇ・・」
ぽつり、と呟いた。
空は日が落ちかけてオレンジ色に染まっていた。
紡と、信が初めて出会った森に着く頃には
クロエの後を信が追うようにして歩いていた。
森はすっかり暗くなり、木々の葉なのかそれの影なのか、夜の空なのか、信には分からなくて、何か別の生き物で今にも襲ってきそうに思えた。
「あぁ嫌だなぁ面倒臭いぃ」
クロエは先程からぶつぶつと文句を呟いている。
・・別に今に始まった事じゃないので、信はあまり気にしていなかった。
そしてクロエが、やっぱアイス食べたいなぁ、と突拍子もなく呟いた時だった。
急に進行方向から少し右にずれた草陰の向こう側から、何か物音が聞こえた。
二人は反射的に立ち止まって、其方に目を向けた。
「ぎゃーぎゃーッ!!着いて来ないでーーッ!」
草陰の物音と信達との近さが、足音だと分かるくらいの距離になるとそんな叫び声も聞こえてくる。
それは、何処かで聞いた事のある声だった。
クロエが金色の眼を細めて溜息を付く。
「あぁあーボクの予感があたらなければよかったのにぃ」
既に疲れたようにクロエが言った。
信はそれを無視して物音がする方をジッと見ていた。
目が慣れてきたので、割と何が何処にあるのかくらいは分かるようになっていた。
「ぎゃーーっ誰か助けてぇえッ」
情けない叫び声が聞こえて、ガサガサ、と凄い音を立てて草陰から信達の前に何かが転がりこんできた。
それは、茶髪の少年だった。信は驚き、目を見開いてその少年を見つめた。
「あーぁ、もう何やってるんですかぁ・・面倒臭い事してくれちゃってぇ」
クロエが、軽く怒りを帯びた声色で転がり込んできた茶髪の少年を見下ろした。
少年は勢い良くクロエを振り返り、涙で潤んだ瞳を二人に向けた。
「ふ、二人とも・・!助けに来てくれたんすか・・っ!?」
その言葉を聞いて、信はようやくこの茶髪の少年が箒だという事が分かった。
何でこんな姿なのかは分からないが、見つかって良かった、とほっとした。
嬉しそうに笑みを浮かべる少年の頭を、クロエはいつもよりも数倍不機嫌そうな顔で軽く叩いた。
「なわけないでしょぉ。」
溜息混じりでクロエが呟いた・・瞬間に、先程箒が出て来た草陰からまた何かが出て来た。
それは、黒い服に身を包み同じく黒い帽子を深く被った男の二人組だった。
「仕方無いけどぉ・・連れ戻しにきてあげたんですぅ」
金色の瞳をその二人組に向けて、クロエは呟いた。
「・・おい、コウモリちゃんよ」
二人の男の内、一人が口を開いた。
信とクロエは男達をジッと見て目を離さなかった。
箒は、二人の後ろに回りあわあわと焦っている。
「何でしょうかぁ?なるべく手短にしてくださいねぇ」
クロエが面倒臭そうに呟いた。
それが感に障ったのか、先程口を開いた男がクロエにつかつかと近付いてくる。
「随分生意気な口を聞くんだなぁ、ええ?コウモリちゃん?
誰の使い魔かしらねえが、後ろの箒をよこすんだな」
男のドスの効いた脅迫をクロエは面倒臭そうに眺め、首を緩く傾けた。
「どうしてあなた方に渡さなきゃなんですかねぇ
これは元々ボクのおもちゃなんですけどぉ・・勝手に使っといてその態度ですかぁ?」
おもちゃって・・酷い、と箒が後ろの方で小さく呟いた。
クロエと男は睨み合い始める、箒は信の背中にぴったりと貼り付いてその様子を伺っていた。
「お前のような子供が、あの箒を使いこなせると思っているのか?」
男が呟く、クロエは余裕そうな表情で男を見上げている。
「それはこっちの台詞ですよぉ。
あなた方はアレをただの喋る箒としか思っていないようですがねぇ」
アレは高く売れるだけじゃないんですよぉ、と小さな声でクロエが付け足す。
ざわざわと森の木々が唸り始めた。風が強くなってきたのだ。
心なしか肌寒さを感じて、信は身震いをした。
「まあまあそのくらいにしてやれよ・・」
クロエと睨み合っている男の後ろの方でもう一人の男がくすくすと笑っている。
信はそちらを見ると、そこにはもうその男の姿は無かった。
「箒ッ」
信が驚いて辺りを見回そうとした時、クロエが大声で叫んだ。
信は反射的に、自分の背中にぴったりと貼り付いているハズの箒を振り返った。
すると箒はぽんっとクロエがコウモリから女の子に変身した時と似たような音を上げて少年の姿から元の箒の姿に戻り、ひゅんとクロエの方へ飛んでいった。
「あーあ、捕まえ損ねちゃったぁ・・流石喋る箒」
信の後ろから、先程の消えた男の声が聞こえる。
信は振り返ろうとして、そこで硬直した。
首筋にナイフのような物を当てられている、という事に気付いたからだ。
「でもこっちの子には気が回らなかったようだな」
くすくすと頭上から勝ち誇ったような笑みが降ってくる。
信は、ああまた迷惑をかけている、と己ののろまさを呪った。
「お前こそ、こっちまで気が回らなかったんじゃない?」
さあこの子の命が欲しければその箒をよこすんだな、とベタな事を男が言い出そうとした時、聞き慣れた声がその男の更に後ろから聞こえてきた。
信は目だけを動かし、そちらを見る。
「御主人・・遅いですよぉ」
クロエが面倒くさそうに呟いた。そう、そこにいたのは紡だった。
紡は青い眼を鋭く光らせ、いつの間に掴んだのか、手に持っている箒の柄を男の首元に当てていた。
「ごめんごめん」
クロエの不機嫌な声に紡は軽く謝った。
まあ今回は許しますけどぉ、と少し上から目線でクロエが呟く。
「・・まずその子・・離して貰えるかな」
柔らかく、優しい口調で紡が呟く。
その柔らかい口調が何故か酷く恐ろしく響いた。
男がそっと信の首に当てたナイフを引っ込めて、地面に落とした。
信はその隙にさっと男から離れてクロエの所へ走って行った。
もう一人の男は、何時の間にクロエにやられたのか地面で蹲っていた。
「おぉ・・おっかねぇ」
紡に箒を突きつけられている男が小さく呟いた。
「俺は彗を返して欲しいだけだから・・大人しく退いてくれれば嬉しいんだけど?」
紡の言葉に、男は小さく舌打ちして地面に蹲っている男に近付きその男をひょいと軽く抱え上げた。
「・・・喋る箒より命の方が惜しいからね退散するよ」
男はそう呟き、どこからか取り出した箒で夜の空に消えていってしまった。
クロエは、はあ、と小さく溜息を零していつの間に戻ったのかコウモリの姿で信の肩に留まった。
「全く・・やれやれですねぇ」
疲れた疲れた、とクロエがぶつぶつ言い始める。
紡も同じように溜息を付いて、信に近付いてくる。
「・・すみません御主人・・俺の所為で」
箒が申し訳なさそうに呟く。
紡は箒を見つめながら、小さく微笑んだ。
「いいよ別に。持って行かれなくて良かった」
紡の言葉に、箒は嬉しいのか泣き始める。
最も箒なので涙なんかは出ていないのだけれど。
「信もごめんね・・大丈夫?」
紡は信の髪を撫でながらそう聞いてくる。
信は小さく頷き、俺の方こそごめん、と謝った。
「何であなたが謝るんですかぁ?」
紡の代わりにクロエが聞き返す。
ていうか僕に謝って下さいよ、とでも言いたげに。
「・・だって俺、弱いから」
俯きがちに信はそう呟いた。
力があってもそれを好きな時に好きなように操れる訳でも無く
それは逆に大切な人を傷付けてしまうもので
それを封印しても自分は 誰も守れない弱い生き物
だけど
だけども、
「・・弱くなんかないよ」
そうやって笑って、頭を撫でてくれるから。
自惚れる。自惚れてしまう。
「信は強いよ」
俺よりもずっと、そう言って苦笑を混ぜた笑みを浮かべる紡を初めて弱々しく感じてしまった。
ああこの人は
こんなにも今にも消えてしまいそうに弱々しい光だったのだろうか
こんなにも華奢で、綺麗でなのに強かを装って無理して笑っていたのだろうか
こんなにも細い肩に沢山の重みを乗せられてきたのだろうか
それが途端に悲しくなって何故だか泣けてきてしまった。
泣きながらも、強くなりたい、と我が儘をいってしまう自分を自分で呪うしか無いのが自分の弱さなのかもしれないと、感じながら。
だけど
やっぱり俺は 誰かを傷付ける事しか出来ない
ただの殺戮兵器だった。
「ねぇねぇ見てよこれ!」
今日はミシェルの本屋で働く日。
紡はいつも通りに本の整理をしていると、後ろからミシェルが話し掛けてくる。
紡は振り返って、何ですか?、と呟く。
「あの監視員を殺して逃げ出したって言う政府の殺戮兵器、
どうやら本格的に政府が動いて探してるらしいわ〜」
新聞を見つめながら楽しそうに呟くミシェル。
紡は、なんだかなー、と思いつつ、はあ、と返事を返した。
あまり乗り気でない紡を他所にミシェルは一人で喋っている。
それも最初は戸惑ったが、今となってはもう慣れてしまった。
「殺戮兵器を庇うもの、関わったものは死刑!ですってー怖いわねえ」
知らない間に関わってたらどうしましょー、何て冗談交じりに呟くミシェルに紡は苦笑を零した。
「こん・・にちは?」
不意に本屋の中に飛び込んだ声に、噂をすれば・・、と紡は内心溜息を付いた。
「あら〜信君!」
ミシェルが嬉しそうに笑顔を零してぱたぱたと走っていく。
あの日以来ミシェルは信とクロエにベタ惚れだ。
紡は小さく信に笑いかけてから、また本棚の方に向き直って本を並べ始める。
政府が血眼になって探している殺戮兵器、それこそ超厄介事の信をそれでも見棄てる事が出来ずにどうすれば見つからないか、という方法まで考えている自分が自分でおかしいと思う。
だけれど護りたい、と護らなくては、と思う。
でも多分、もし信の為に死ぬ事になっても
それでもいいと思っている。だからこんな事ができるんだ。
そして紡はミシェルにも、今来てミシェルと話している信にも気付かれないように自嘲気味に笑ったのだった。
「・・ッ」
胸騒ぎがした。
嫌な予感と共に、魔力が暴走して指先にまた電気のようなモノが走った。
「御主人・・どうかされましたぁ?」
クロエが金色の瞳を向けてくる。
紡は微笑みを零して、何でも無いよ、と笑った。
だが実際は何でも無い訳じゃなかった。
嫌な予感と、変な胸騒ぎ。指先の痛みが気にならないほどの。
「・・・信、遅いね」
紡は扉の方を見つめながら呟いた。
信は、クロエの魔法で人間・・彗になった箒と共にお使いにいっているのだ。
やっぱり夜に行かせるんじゃなかったかな、と紡は今更後悔をした。
「大丈夫ですよぅ。二人とももう子供じゃあるまいしぃ」
心配症ですねぇ、とクロエは溜息混じりに呟いた。
紡は苦笑混じりに微笑んで自分も同じく溜息を零した。
「・・本当だね」
紡の言葉に、そうですよぅ、とまたクロエが返した。
・・でも何も無ければいいけど、扉をジッと見つめて、静かに紡は呟いた。
そういえば前にもこんな事会ったような気がする、
それを不意に思い出した。
魔法使いの勘はあたる、って信じてなかった訳じゃないけど
でもやっぱりそんなの分からなくて。
でもそれは、見事に的中していた。
あの時、もっと早く駆けつけていれば
クロエも箒も、体力を削って魔法をかけないと元に戻れないような、
そんな身体にならずにすんだのに・・。
未だにその事を思い出すと、自己嫌悪に浸ってしまう。
だけど胸騒ぎは止まらなくて、
「・・・・ごめんクロエ、やっぱちょっと探してくるね」
椅子から立ち上がった紡にクロエは金色の瞳を細めてまた溜息を付いた。
「全く・・分かりました・・ボクは留守番してれば良いんですね?」
クロエの言葉に紡は、ごめんね、ともう一度謝って
コートを掴んで家を飛び出したのだった。
夜が騒がしい。
木とか空気とかがざわざわ騒いでいる。一歩歩く事に胸騒ぎも酷くなってくる。
町には灯りが溢れて、まだ人も活発に行き来していた。
紡は胸を押さえながらそんな夜の町の中を走った。
口の中で、何もありませんように、と信じたこともない神に祈りながら。
きゃあ、と叫び声が聞こえたと思って振り返った。
だけどそこにはただ真っ暗な闇が広がっているだけで、何も無かった。
「気のせい?」
信は呟いて隣の彗を見上げた。彗は不思議そうに信を見下ろす。
「・・じゃ、ないですかねえ」
おそらくその叫び声は彗には聞こえなかったのだろう。
不思議そうに呟く彗に、そっか、と信は呟いてまた歩き出した。
紙袋を両手に抱えて何歩か歩いて、信はまた立ち止まった。
「・・・じゃ、なかったみたい」
小さく呟いて、信は彗とまた顔を見合わせる。
ですねぇ、と彗が返した。
目の前には、数人の人。
そのどれもが、あの日森で追いかけ回された人と同じ服装だった。
「とりあえず・・逃げましょう!」
彗が叫んで、それと同時に足が動いた。
振り返って信と彗は走り出した。
その瞬間浮かんだのは、紡の顔だった。
あの場所に帰らなくちゃ、と強く強く、思ったのだった。
ずきずきする。
胸が締め付けられるように痛い。
浅い息を繰り返しながら紡は走っていた。
「信・・彗・・」
名前を呼びながら、足が向く方へ走っていた。
そして、不意に立ち止まる。
「信?」
横を見つめて呟く。
そこは真っ暗な小道。家と家の間の、真っ暗な道だった。
耳を澄ますと微かに、人の声が聞こえてくる。
紡はジッとしてその声に耳を傾けた。
追え、そっちだ、捕まえろ。
紡は声が聞き取れた瞬間に、その道を走り出した。
先程とは比べものにならないくらいの速さで。
やっぱり心の中で、どうかどうか、と祈りながら。
魔法使いが神に祈るなんて、変な話なのに。
「っ・・はッ」
呼吸が乱れていく。
信は死にものぐるいで暗い道を走っていた。
「・・ッ・・しつこいですねぇっ」
隣で彗が呟いた。
後ろからは次々と人が追ってくる。
二人の頭の中には、捕まったら殺される、とただそれだけ。
「あーぁ、みんな帰ってきませんねぇ」
急に広くなったような部屋の中を見渡して、クロエはため息混じりに呟いた。
テーブルの上に降りたって、ジッとドアの方を見つめる。
一向に開く気配のないドアに、クロエはまたため息を零した。
「もう・・後10分ですからねぇ」
誰もいないのに、それ以上は待ちませんからねぇ、と呟いて
クロエは静かに目を閉じた。
「信、彗っ!」
不意に声が聞こえて、俯きがちに走っていた二人は顔を上げた。
そこには血相を変えた紡が立っていた。
「紡!」
信は笑みを浮かべ紡を呼んだ。
脚が棒のようになって来た時、もう二度と紡とクロエには会えないかもしれない、とまで覚悟をしたから余計に嬉しい。
彗も嬉しそうに、ご主人様、と叫んでいる。
二人は紡に全速力で駆け寄った。
紡は嫌な予感が当たって、青い顔をしている。
「と、りあえず・・逃げよ」
呆然と呟く紡に、え・・う、うん?、と二人は曖昧な返事をして走り出した。
「どうしよ・・会えたのはいいけど何も考えてなかった」
走りながら紡が呟く。
暗闇の中で、今日のご主人は頼りないですね、と彗がぽつりと零した。
死んでもどうせ作り直せるんだ、撃て。
そう聞こえた気がした。
一瞬頭の中が真っ白になって、振り返ってみた時にはもう遅かった。
闇に溶けるかのような真っ黒い服を着た数人の男達が
夜でも月明かりに照らされて黒光りする、その漆黒の銃をこちらに向けて
前を走る二人を呼ぼうとするけど、何故か声が喉に引っかかって出てこない。
バァン、急に酷い音が遠くで聞こえたと思った。
やめろ、泣きそうになって、それでも声は出なかった。
両手を顔の前でクロスさせて、終わった、死んだ、と思っていた。
しかしいつまでたっても何かが変わるわけでもなく、信はおそるおそる顔を上げた。
「・・やはり来て正解でした・・」
目の前に夜よりも深い漆黒の髪の少女が立っていた。
だけれどその色は、あの銃何かとは比べものにならないくらい暖かくて
信はまた思わず泣き出しそうになってしまった。
「大丈夫ですか?」
くるり、と振り返った少女の瞳はやっぱりいつかと同じような綺麗な金色で
ふ、と目を細めて微笑みかける。
「クロエ・・」
信はほっと安堵の笑みを浮かべて呟いた。
少女、クロエは優しい顔つきから急にきりっとなって真の後ろの紡を見つめた。
「御主人様ここは私が片付けますから、早く」
クロエの言葉に紡は、ごめん、と謝って真の腕を掴んで、走り出した。
同じく走り出そうとした彗の手をクロエが掴んで
「あなたはいかせませんよ?」
と黒い笑みを浮かべた。
彗はそんなクロエを見上げて、ですよね、と怯えたように呟く。
「死ぬ時は一緒ってあんたがいったんですからねぇ」
いつものようなしゃべり方をして、クロエは形の良い唇を歪めて見せた。
黒い黒い、どこまでも真っ黒な影が俺の後を付き纏う。
ほら、もっと気を張り詰めていろ。じゃないと俺がお前を飲み込んでやる。
そう言われてる気がして、俺は目や耳を塞ぐのだけれど。
目を開ける度に、誰かの声を聞こうとする度
暖かい誰かの声と共に、聞こえてくる黒い言葉。
信は走りながら、紡の細い腕を握り替えした。
途端に罪悪感に襲われる。俺の所為で、ってまた。
「紡・・」
情けない声が喉から出てきた。
さっき詰まってたのが、変な風になったのかもしれない。
紡は走りながら、ん?、と返事を返した。
「・・・やっぱ何でもない」
多分、ごめん、って謝ったら怒られてしまう。
そう思ったから言わなかった。紡はしばらく黙った後、急に立ち止まった。
信も驚きながらも立ち止まって、紡を見上げる。
「信の所為じゃないよ」
そう言われて、やっぱり、と思った。
やっぱりこの人には、きっと何もかも見透かされているんだろう。
俺は何一つ分からないのに、と信は紡の背中を見つめた。
「俺こそごめんね・・何もしてやれなくて」
今度は、紡が情けない声を出した。
謝ること無いのに、と思った。
それでも、謝るな、と怒れない自分をまた罵った。
謝ること無いのに、と紡の細い手を握りしめた。
握りしめられた手を、俯くように見つめた。
細い腕だった。自分も、相手も。
「・・もし俺が・・・」
死んだら、口の中まで出かかった、けど紡はそれを飲み込んだ。
そして自分も強く手を握り替えして振り返った。
「行こう」
走り出しながら、それは死んだ時にでも言おう、と噛み締めた。
ああ、死んだら元も子もないかな、とも思ったのだけれど。
「ッ・・」
地面に叩きつけられて、クロエは目の前に立つ真っ黒な人間達を睨み上げた。
小石か何かが皮膚に刺さって、痛い。
だけどそれよりもっと痛いのは、別の場所。
クロエはちらりと横目で遠くの方を見た。
向こうの方にぼろぼろにされた箒が転がっている。
人の姿だったら、きっと惨いものだっただろう。
クロエは地面に頬を押しつけて、静かに目を閉じた。
「つまらない・・でも、」
とても暖かかった気がします、言えたのか言えなかったのか分からない内に遠くの方で、何かが壊れる音がした。
声が、声が届かない。
何かを叫びたくて、でも叫ぶ言葉を知らなくて
誰かを呼びたくて、でも呼ぶ名前を知らなくて
そんな感情を込めて、滅茶苦茶に撒き散らしたって
きっと誰も気付いてはくれないだろう。
きっと誰も応えてくれないだろう。
そんな風に思っていた。そんな風に生きていた。
きっと全て関係のないことで、知らなくても良いことなんだって。
だって声は、帰ってくることはないから。
だけどあの日、声が届いたとしたのなら。
あの日、呼んでも良い名前を教えられたとしたのなら。
カシャン、何かが音を立てて落ちて壊れてしまった。
そんな音が聞こえた気がした。
途端に、嫌な予感が体中を駆け回る。早く逃げろ、と叫び出す。
「・・紡」
信が呟くと、紡はぴたりと足を止めて信の手をギュッと握りしめた。
少し空気が冷たい。おそらく、紡も嫌な予感を感じ取ったのだろう。
「魔法使いの感ってさ・・大体当たっちゃうんだよね・・」
悲痛な声に聞こえた。信は、紡の横に並んで顔を見上げる。
紡?、と声をかけても俯いたまま唇を噛み締めていた。
「・・・信」
数秒がとても長く感じられた。
ようやく口をきいた紡は、もう一度ギュッと信の手を握り替えして、そっと手を放してしまった。
「俺、信に会えてよかったよ」
無理矢理微笑んでる、と誰でも分かるような笑みを浮かべて紡が言った。
何でそんなこというんだ?、今度は信が唇を噛み締める。
「信には、生きてて欲しいんだ」
意図が、分かったような気がして信は目を大きく見開いた。
今にも消えてしまいそうとか、こんなに細かったっけとか
紡が綺麗すぎる訳がよく分かった。
「・・俺嫌だよ。一人で逃げるなんて」
死ぬのは惜しい。でも一人でずるずると生きていても、意味が無いような気がした。
どうせ捕まって終わりなんだ。
紡や、クロエや彗との記憶も消されてしまうのなら、ここで絶えた方が良かった。
「生き延びろって言ってんの」
紡は少し強い声でそういって、信の前にしゃがみ込んだ。
泣き出しそうなのを堪えているのが、お互いに分かった。
「信は、もっといろんな事を知って行かなきゃ駄目だよ・・?」
声が、肩を掴んでいる両手が、震えていた。
怖いのか、悲しいのか、きっとぐちゃぐちゃに混ざった感情。
「きっと見つかるから・・信の事解って、護ってくれる人が・・
俺以外に見つかるから・・・」
呪文のように、きっと、と唱える紡の声が酷く遠くに感じた。
行きたくなかった。この人達とさよなら何てしたくなかった。
ふ、と紡の綺麗な蒼い瞳が細くなった。
「さよなら」
もう言ってはくれない。
帰ろう、と手を差し伸べてはくれない。
解ってる、解ってた。いつかこの時が来るって事は。
紡の背中が遠くなる。追いかけたいのに、追いかけられない。
動きたいのに、動けない。
「さよ・・なら・・」
全部教えてくれたのは紡だった。
暖かさも優しさも全部全部、教えてくれたのは紡だった。
きっとずっと一緒にいられると思っていた。
あの綺麗な横顔を見ていられると思っていた。
どうして、俺は何も守れないんだろう。
『動きなさい』
その時、意識がフッと途切れてしまった。
もう誰かを傷付けるのはこれで最後にしよう。
もう何かを見失うのも、これで最後だ。
走れ、 走れ
死ぬためじゃない。
逃げるためでもない。
生かすためだ、生きるためだ。
自分のこの暖かな気持ちを。
今まで味わったことのない、この気持ちを。
「クロ・・エ・・!」
全力疾走で走ってきた紡は、目の前の光景に目を伏せたくなった。
大体は予期していたこと。分かってる、分かってるけど、辛いのは辛い。
紡は転がっている箒の元へ行ってしゃがみ込んだ。
ぼろぼろになった箒。彗の姿だったら、きっともっと無惨なんだろう。
「彗・・」
機械的にやらなくては。思うけれど、喉の奥から嗚咽が込み上げてきて
嗚咽と一緒に涙が零れる。
紡は俯いて、静かに涙を零した。
「彗、お前の役目は終わりだよ・・安らかにお眠り」
震える声で呟いて、紡はそっとぼろぼろになった箒を撫でた。
すると箒はみるみるうちに灰のように小さな粒になって、風に飛ばされていってしまった。
紡はもう何も無い地面をジッと見た後、振り返って今度はクロエに近付いた。
クロエの綺麗な髪はもう輝きが無く、ただの物体と化していた。
「クロエも良くやったね・・安らかに」
そう呟いて、紡はクロエの髪を柔らかく撫でた。
小さい子に、真っ黒いココロだ、と言われていた時。
魔法をかけてくださいと言われた。
あの時から、ずっとずっと二人とは一緒でずっとずっと大切に思って来た。
二人はこんな俺を恨んでいるかな。
「紡・・」
悲しさやら寂しさやらを噛み締めていると、不意に声をかけられて紡は振り返る。
そこには、信が立っていた。
気配何てしなかったのに、と紡は不振に思い立ち上がる。
「信・・だけど、信じゃないよね・・?」
小さく呟いて、紡は苦笑を零す。
予期していなかった自体。さあどうしたものかと頭の中で考え始める。
「お前を殺す」
もう誰も傷つけたくない。
何よりも誰よりも望んでいたのは、お前だっただろう?
だからかも知れない。
抱きしめて、暖かさで包んでやりたくなった。
それが間違っていると、一瞬疑った。
でもそれは、一瞬、だった。
頭痛が走る。
視界がぐらぐら揺れていて、変にぼやけていてよく見えない。
誰かの辛そうな声が、聞こえる。
「ッ・・」
間近で、聞こえる。
「し・・ん・・っ」
そこで、ハッとなる。それとほぼ同時に、視界がはっきりと見えた。
ここは、どこだろう。どこか森の中。
ふ、と足元を見る、とそこには顔を血やら土やらでどろどろにした紡が転がっていた。
「紡・・・?」
どうしてここに?俺は逃げたはず・・一人で・・。
妙な罪悪感と恐怖心。
「信・・っ・・気付いた・・のか・・?」
乱れた呼吸を繰り返しながら、紡がかすれた声を上げる。
信はその場に崩れるように座り込み、紡の顔を見下ろした。
「紡・・俺・・」
嫌な予感。怖い、怖い、怖い・・っ。
どうして紡はぼろぼろなんだ?どうして俺はこんな所にいるんだ?
頭が痛い・・胸も痛い・・体中が痛い・・。
どうして・・?どうして俺の手はこんなに真っ赤ななんだ?
「俺が・・やった・・?」
呆然と呟いた。
その言葉に確証はなかったが、呟いた瞬間にそれが真実だと分かってしまった。
助けて貰った紡を?暖かかった紡を?俺がこんなにしたのか?
頬を涙が伝った。その涙は紡の顔の上に落ちていく。
「ちがう・・ッお前じゃない・・!」
紡が叫ぶ。だけれどその声は信には届かなかった。
何てことをしてしまったんだろう。もう取り返しは付かないだろう。
信はただ呆然と泣くしか出来なかった。
「ッ・・信・・きけ・・っ」
紡に腕を掴まれて、信は慌てて紡を助け起こす。
紡の口の端から血が零れる。
「頼む・・から・・生きて・・くれッ」
必死に紡が言葉を繋ぐ。信は目を見開いたまま、紡の肩を抱きしめる。
「嫌だッ」
それしか言えなかった。傷つけて、傷つけても逃げなくちゃ駄目なの?
それならここで一緒に絶えてしまいたい。
もう何も壊したくなどない。
「信・・俺は今からお前にッ・・魔法をかける・・っ」
信のシャツを掴んで、紡が呟いた。
喘ぐように言葉を繋ぐ紡の口を、塞いでしまいたかった。
「お前が・・操られなくなる魔法・・ッ」
だから逃げろ、と紡の真っ直ぐな目に言われた。
その綺麗な綺麗な瞳から、目がそらせなかった。
「・・走れ・・るか?」
紡が俯くように頭を擡げて呟いた。信は唇を噛み締めて、小さく頷いた。
紡は小さく笑みを零すと、握っていたシャツから手を放した。
はぁ、と小さく息を吐いて顔を上げ、信の頭を撫でた。
「・・・泣かなくていいよ・・」
ぼろぼろと涙を零している信に微笑みかける。
笑え、と自分に言い聞かせて頷きはするのだけれど、涙は止まらなかった。
本当は行きたくなんか無い。ずっとココにいたい。
なあ紡。俺はまた呼べる名前を無くしてしまうんだ。
紡は信の頭を撫でている手を、信の首の後ろに回してそのままぐいっと自分の方に寄せた。
そして信の頬に軽いキスをしたのだった。
いきなさい、という言葉はもう聞き取れなかった。
信は紡の口の動きでそれを読み取って、紡をそっと地面に寝かせて走り出した。
止めようと思っても無駄だった。涙は勝手に流れてしまっていた。
もしも俺に力があったら、暖かい場所を冷やさずに済んだのかな。
もしも俺が強かったら、もしも俺が強かったら・・
もしも俺に、紡みたいな強さがあったら・・。
帰ろう、と笑って手を差し伸べる。
そんな事が出来たなら・・。
「ッ・・」
なあ、紡。
呼べる名前を知ったって、呼べる相手がいなきゃ意味が無いんだ。
帰れる道を覚えたって、帰った先に待つ人がいなきゃ意味が無いんだ。
俺にとってはそんなの、冷たい氷と一緒なんだ。
「・・っう・・ッ」
でも走るしかないんだよな? 俺は逃げるしかないんだよな?
どんなに痛くても、悲しくても、涙が出ても・・。
俺はもう二度と・・紡達と会うことは無いんだよな?
「・・ッッッ・・・つ」
唇を噛み締めた。
声が零れないように。自分が崩れてしまわないように。
頭の中が、真っ白になっていった・・・。
「はあ・・ッ・・は・・あ・・っ」
視界が段々ぼやけて、狭まってくる。
もう逃げ切れたかな?どこか遠くへ行ってしまったかな?
信、信・・泣かなくてもいいから。怒って貰っても構わないから。
分かってるんだ。こんな事しか出来ないのは、自分が弱いからだって。
「・・ッ・・ごめ・・ん・・な・・し、ん・・っ」
辛い思いばかりさせて、ごめんな。
ごめん・・・な・・・・?
「はあ・・はあ・・ッ」
村の外れまで来ると、信は立ち止まってその場に崩れ落ちた。
涙は一向に止まる気配はないし、悔しくて痛くて、どうしようもなかった。
泣いてたって始まらないのは分かる。分かるから、止めなくちゃいけない。
「・・つけ・・落ち着け・・っ」
信は自分に言い聞かせるように呟いて、しゃくり上げながらも出てくる涙を引っ込めようと努力した。
落ち着け、と何十回も呟いた。
「落ち着け・・っ・・」
息も整ってきたところで、ようやく落ち着いて信は深呼吸をしてよろよろと立ち上がった。
酷く現実味がない。このまま振り返って家に帰ったら、紡達がいるんじゃないのかとも思う。
でもそれはもう・・無いから。割り切らなくてはいけない。
信はまた泣き出しそうなのを堪えて歩き出した。
行きたがらない脚を引き摺るようにして歩いた。
いつかと同じように「あてもなく」。
『きっと見つかるから・・信の事解って、護ってくれる人が・・』
紡の言葉が脳内を駆け巡った。
本当かな。本当かな、紡。
こんな弱い俺でも、護ってくれる人、見つかるのかな。
信は唇を噛み締めて苦笑した。
「それが紡だったら良かったのに・・」
『俺以外に見つかるから・・・』
そのまま紡だったら、良かったのに。
暗い暗い闇の中。
魔法使いと殺人鬼は、静かに目を閉じたのでした。
end
なあ聞こえてるか。
俺な、初めてだったんだ
──────声を聞いて貰うのが
魔 法 使 い と 殺 人 鬼